21年生きてはじめて他者からの評価を少し理解できたって話
2015年11月下旬某日
「最後の質問です。あなたのことを簡潔にPRしてください」
「…えーっと、私は部長をやるような輝かしい人物ではありません。ですが、実際のクラブ活動で副部長を務めたように、好きなことを地道にコツコツ頑張れる人物です」
これが、私が筑波大学人文・文化学群人文学類受験の際の最終質問とその回答だ。
改めましての自己開示
1997年夏生れ、現在上記の学類に所属している大学生3年生(女)。
西アジアが好きという強い軸を持ち、その軸を元にトルコへの発掘参加や大学選びなどの人生を左右する選択を行ってきた。
西アジアと言っても、古代の事には限らない。そう、西アジアが関係して居れば、そこに存在するものに貴賤はない。そう断言できる。それほど私は西アジアという地域が大好きだ。
更には好きな事、熱中していることには集中力や行動力を発揮することが出来る。
そしてそこそこ軽めのフットワークの持ち主で、割かし国際志向。
それが私である。
(好きな事ならば)愚直なまでに没頭できる人物であるという評価は、自他ともに認めるところでもある。
更には、所属していた学生NPO・アイセック筑波大学委員会で頻繁にあった自己分析機会のために、自己分析も1年生のころから行ってきた。
常に一定の満足が行く自己分析をしてきたと私は考えている。
それでも1つ、大学に入ってから受け入れられない評価ある。その1つだけ、どうしても納得いかなかった評価がある。
それは、、「さえ(筆者のあだ名)は、リーダータイプだよね」という評価である。
…どこが???
正直なところ、これをつい昨日まで、数年引き摺っていた。
閑話・ちょっと前の話
私は中学高校と所属していた部活・ダンス部で高2の時に副部長を務めた。最初は部長を務めたがったが、諸々の事情でそれは断念した。
この1番の理由は「自分はリーダーが持っているような華々しさはない。カリスマ性に欠如している。むしろ副部長こそがふさわしいだろう」と判断したことだ。
私は、組織が円満に行き、それで自分のやりたいことも叶えられたら自分の評価がどうなっても気にしないタイプの人間だ。
例えとして、実際に私が体験した例を出したい。高2の時の部活の話だ。
私の代がダンス部に入った際、先輩たちはとても厳しい指導をしてくださった。おかげで、5学年で50人を超す部活の統率は取れていただろう。
しかしながら、私たちが高2になり、執行代になったときに規律に関して問題が生じた。
部活の雰囲気がたるんでいて、統一感に欠けるのではないか。
今思うと小さい問題ではあるが、当時の高2としては重要な問題であった。
締めることは簡単でもあった。
高2が少しアメとムチのバランスを見直すだけで良かったのだから。
が、私たちは全体の意思として、アメの比率が圧倒的に多くなってしまった。
理由としては簡単で、当時の高2は後輩から嫌われたくはなかったからだ。
でも、これでは全体としてうまくいかない。
私は全体が少しでもよくなれば、自分が嫌われても良い。
その思いで、自身の態度をムチに全振りすることにした。
50人中10人もいない高2の中で更に1人くらい完全にムチに徹する人間がいても、部活全体としては問題がないだろう。そういう判断だ。
私の中で、この手のエピソードはとても多い。
それを受け、先日とある先輩Aから「さえは常に組織に目が向いているね」と分析された。
成程。
言われてみればそうだ。
この分析には非常に納得がいった。
昨日までずっと受け入れられなかった分析
私は大学1,2年生の時に学生NPOに所属していた。
1年生の時から計2回チームリーダーをやらせてもらい、2年生の時はその団体55周年式典にも筑波大学から出席した3人の1人に加えてもらえた。
更には海外委員会との連絡・調整も担ってきた。
自分の問題意識とは合わなかったために、全てお断りしてしまったが、執行部や委員長をやらないかという誘いも貰った。
私にとって、リーダーという役職は難しいポジションであると考えていたからだ。
なにせ、私は議論設計が得意ではないし、ファシリテートも得意ではないからだ。
だから、荷が重い。そう考えていて節がある。
ところで、そのNPOの同期に2年生の時に副委員長をしていた友人Rがいる。
彼女は仕事が早く、とても優秀な人物だ。
そんなRにかつて言われたことがある。
「どうしてさえは自分がリーダーに向いていないと思い込んでるの?」
理由はなんであったが忘れたが、私が自分はリーダーに向いていないという趣旨の文章を書いたときの彼女のコメントだ。
…ほう。
この評価は1年間私に強く引っかかった。
Encourage 筑波 学内インターンシップ WiLLに参加してきたよ
終了後、漸くRから受けた評価を納得することが出来た。
イベントの内容としては、各自がそれぞれ持っている自己成長のための目標達成を意識しながら、5人チームでグループディスカッションを行うというものだった。
適宜個人やグループに対しフィードバックがあるのだが、私がいたチームは「チームとして不健全」といった趣旨のフィードバックをもらうことが多々あった。
発言量が多く突っ走りがちな3人と、発言量が少ないためにあまり議論に参加できなかった2人に分化してしまったからだ。
ご察しかもしれないが、私は前者に属していた。
正直なところ、私はフィードバックの内容が悔しかったし、彼女たちの意見を引き出せない事にイライラしていた。
自分の意見を言えない状況に私が陥ったらとても悲しいし、私はそういう人を見たくはないからだ。
私自身の目標は2つ。
・計24回、自分の意見を簡潔に言う事。
・計12回、相手の意見のメリットを簡潔に言う事。
私自身の長所でもあり短所でもある頑固さ、及びそれに起因する感情的な側面をコントロールし、大局観を養うためのGOALである。
昨日はそこまで意識していなかったが、相手の意見を引き出せないという事は自分のゴール未達成という事態を招きかねない。
それもひょっとしたらイライラの素になっていたのかもしれない。
私は積極的に2人に話をふるようにした。
終了後、チームメンバーやメンターからフィードバックを受けた。
私自身の2つのGOALは達成されていた。
それは勿論喜ばしいことだ。
が、予想外のコメントも受けた。
「さえはリーダーとしての役割も果たしてくれたよね」
まじ???
振り返り
メンターの方とも終わった後に話したところ、私は話しまくる人とそうでもない人の間に立つバランサーとしての役割を果たしていた。
あまり議論に参加しない人からの意見を引きだす、という点において、ファシリテーターではないものの、議論のLEADerとして動いていたということだ。
勿論、それも十分であったとはとてもではないが言い難い。
私に出来たのはあくまで意見を引き出す機会を提供しただけであり、それも十分ではなかった。
更に、真にLEADerとして自身を置くならば、発言が強い人に対する牽制もあってしかるべきだったのだ。
その点では、十分に反省の余地がある。
リーダーが必ずしも議論の中心である必要性はない。
それは何度も言われてきたことだ。
が、私は中高生の時から抱いてきたリーダー像のためにそれを受け入れることが出来なかった。
更には、リーダー向きの人材であると言われたために、実際にやってみても、ファシリテーターとしては未熟の極みを露呈して失敗。それを繰り返してきた。
そのために、自身はリーダーに向いていない人材であると理解してきた。
が、ひょっとしたらそうではないのかもしれない。
Rが客観的にみて、「さえの意見は妥当じゃない」と言ってきたのは、リーダーとしてではなく、LEADerとしての話をしていたのかもしれない。
なにはともあれ、特にこの1年引っかかっていた評価を漸く受け入れることが出来た21歳夏休み、最後のイベントであった。
同じグループであったメンバー、メンターの方々、特に紹介してくれた先輩・Gには本当に感謝である。