高校と大学を繋ぐ(前)
先日弊Twitterで「誰もが軽率に大学に入れる、そんな時代には反対だ」そんなツイートをしたのですが、色々考えるところがあったので文章にしてみました。
ここで1つお断り。
私はもちろん全人類は教育を受ける権利があると思いますし、それは当然であるべきだと考えています。
今回論じるのは権利ではなく、権利を得る為の義務について、です。
さて、私が「軽率に大学に入るなよ(流石に語弊の極み)」と考えるのにはいくつか理由があります。
元々高校生の時代から、「特にやりたいことはないけど、周りが大学に行くから大学に行く」という意見を持つ人には懐疑的でした。
学部や早期卒業などで、中には2,3年やあるいは6年の方もいるとは思いますが、多くが4年間を大学で過ごします。
その4年間を過ごすのに何百万もの学費や生活費や諸費用がかかります。
それを払うのは誰か?
少なくとも私や高校時代の私の周囲ではそれを払うのは両親です。
そして極端な話、義務教育を終えた以上、私たち学生は高校や大学に行かなくても良い訳です。
でも、何故行くのか?
それは結果としてより良い環境に居たいからであり、その為には良い社会的地位を得たいからではないでしょうか。
中卒よりも高卒。
高卒よりも大卒。
というように。
(残念ながら日本では特に文系の院卒にはそこまで敬意が払われていないという現状ですが。)
そして子供がそのように熱心に"学ぶ意思"を見せるから親は応援=投資として学費を払ってくれるのだと私は理解しています。
より高い社会的地位を学問を学ぶことで得るわけですが、ここで日本の教育について見直したいと思います。
まず、中学までの教育が社会に出る為に最低限知っていなければいけないことです。
逆に言えば中卒でも社会に出れるんですよ、極論を言って仕舞えば。
(実現可能性は別として)
そして、高校ではそれを発展させた内容。
ここでは知識・倫理・技術などを深く学びます。
いやでもそんな建前は別として、要は大学行くのに高等教育かそれに準ずる教育が必要なわけで、基本的に皆さんどこかしらの大学行きたいから高校行ってるのだと私は理解してます。
私自身も高校生の時はそうでした。
だって一番楽に大学に入れる方法だったから。
それに、高校入試を受ける15歳の青少年に「自分は高校に行くべきだろうか…」みたいな判断力が完璧にあるとは思いません。
恐らく高校受験までは親の意向が、進学を決める要素の圧倒的多数を占めていたと思います。
だから今回は中学→高校に関しては論じません。
問題は高校→大学への繋がりです。
考えてみてください。
大学受験をするとき、多くの人が18歳になっています。
選挙権を持っています。
もう、自分で自分の意思で決定する資格があるとみなされ、その権利を持っています。
選挙で例えれば、親に左右されずにその1票を投じる資格があります。
そして大学に行かない、という選択をすることも可能です。
そして私はざっと4年間の学費その他経費という"投資"を受ける権利を受けるにあたって、「自身はそれに値するのか?」と批判的に考え、そしてそれを証明する義務が子供にはあると考えています。
例えば、学生団体が企業に協賛を受けるにあたり、「〇〇やりたいからお金下さい」とは決して言いません。
「〇〇をやりたい。そしてそれに投資することは、◻︎◻︎な面で貴方にとっても価値があることなんだ」「〇〇をやりたいが、これは貴方の理念と一致するから、損はないはずだ」と必ず価値提供(広告効果や理念を貫くというブランド提供とか)をすることで協賛を得ます。
けして無償では支援は得ません。
何度も繰り返しますが、大学は義務教育ではないために、行かないという選択も可能です。
そして行くという選択をした際に、親権者は彼・彼女に教育を受けさせる義務が発生します。
さてここで(結構厳しめな)質問。
貴方は当然"より良い教育を受けたい"という意志を持った際に、彼らに義務を発動させる権利は持っています。
しかし、貴方には親権者に対して権利を行使するだけの価値を持っていますか?
そりゃほんとうに価値があるかどうかなんて大学卒業しても分かるかどうか怪しいところです。
でも上述の問いに対しては、大学での学問を納める価値があるかもしれないという可能性を見せるだけでも十分だとは思いませんか?
先程から使っている学生団体の例を使えば、彼・彼女らは達成するかどうか分からない事を協賛してほしいところに提示します。
彼・彼女らは達成したら価値を生むから、その可能性に投資しろと言ってるわけです。
ですから、大学受験を考え始めた時に明確に投資されるだけの価値があることを証明しなくても良いのです。
ただ、いつかは投資しただけの価値がある人材になる、そんな可能性を見せればいい。
その可能性だけで十分投資する理由になります。
(あとはそのどの程度の確率とかが決め手になってくるけど流石に割愛)
さて、その可能性を見せるために必要なことは何か。
大学で何をやりたいのか、という明確な目標、問題意識です。
自分は大学でこれを学びたい。
何故ならそれはこのような理由があるからだ。
そういった明確な学びたい学問とその理由を明らかにするべきです。
それがいかに自分にとって大事なのか。
それらを見つけるべきです。
ただオリエント史が好き、日本史が好き。
英語が得意、親戚に政治家がいる。
そんな受動的な理由ではなく、貴方だけのその学問を学ぶべき理由を見つけるべきなのです。
これは高校時代の知り合いと再会して、残念だと思うエピソードの1つなのですが、「高校時代は〇〇に興味があったが、実際に大学に入ってみたら自分が思っていた学問とは違った。だからやめた」という話をよく聞きます。
いやまて、いくらなんでも残念過ぎないか。
高校時代の彼・彼女らの情熱があるのを知っている人のその手のエピソードを聞くたびに、聞いている私の方が悔しくなります。
何のために苦労して受験勉強して、大学に合格して、大学での勉強したのかと。
そんな悲しいことがあって良いのか、と。
あんなにもやりたがっていた学問が1つの挫折でできなくなって良いのかと。
そしてその一方でその程度の情熱だったのか、とも悲しくなります。
そういった悲しいことを大学に入ってから起こさないためにも、そして4年間を有益に使う為にも、自分がやりたいこと、即ち問題意識を大学受験以前に持つべきだと思います。
何度でも言いますが、積極的に学問の対象が変わる分には問題ではないんですよ。
問題は抱いていた幻想とは違ったから、と結果を出さないことです。
結果を停止して、思考を停止して、無為に4年間を過ごす。
せっかく投資を受けているのに、それは勿体ないと思いませんか?
ですから、思考を停止して大学生活を送るのではなく、自身が受けている、あるいは今後受ける投資に合う大学生活を送れているか、あるいは送れるか。
それを問う義務は権利を受けるにあたって発生します。
問うた結果、価値があるならば、大学での学びに投資されるべきなのです。
みんなが行くから行くのではない。
私が行きたいと思うから行く。
親権者からの投資という名の期待に応える為に。
しかしながら、現在は「みんなが行くから行く」という人が圧倒的多数を占めます。
思考を停止して無為に大学生活を過ごす。
それで得るものがあるのならまだしも、何も得ないのならば。
なら大学行かなくても良かったんじゃない??
そんな結論を投資者から出されるくらいなら「軽率に大学行くなよ(流石に語弊の極み」と私は思ってしまうわけです。
世界にはよりよい教育を受けたくても受けられない人たちも存在するのですから。