【公開】「歴史学からイスラームを評価する」資料
お久しぶりです。
先日、弊大学学生イベント”歴つくば”で登壇し、「歴史学からイスラ―ムを評価する」という題目で発表してきました。
そちらの資料を公開しますので、ご査収下さい。
【以下写真は実使用スライドのjpegバージョン】
実は普段は、古代メソポタミア文明の中でも紀元前2千年紀前半の社会経済史として、商人の役割や社会的地位などを扱いながら、当時起こったとされる社会変動について研究しています。
その中で重要なテーマでもある「西アジア史」について今回お話しすることにします。
いかんせん扱っているテーマが大きいので、おそらく20分程度の尺では全てお話しすることができないでしょう。
私自身全て話しきるつもりもありません。
ですので、興味をもった方はぜひお気軽に質問なさってください。
質問お待ちしております。
ということで改めて始めさせていただきます。
このような順番で発表いたします。
でその前に1つこちらのアンケートに見覚えはありませんか?
こちら事前にTwitterやFacebook、LINEなどで皆さまに回答をお願いしていたアンケートになります。
約30人の学生に回答いただいたので、まずそちらの中身を公表したいと思います。
少々つっこみ所もありますが、このような結果になりました。
ではイスラームはどうでしょうか?
なかなかに過激派みたいな声が大きかったです。
実際テロのがらみのニュースも多く、仕方ない所はあるとはいえ、悲しいイメージです。
個人的には商人と記入なさった方と握手したいですね!脱線しますが、「商人」というキーワードこそ私の研究テーマに繋がっていきます。
更に左下の「キリスト教史観による迫害」これも今回のテーマであったりします。
という事で問いを1つ。
検証してみましょう。
事例にベヒストゥーン碑文を取って検証していきたいと思います。
詳細はこちらの↓画像をご覧ください。
でここで私は突っ込みたいわけです。
本当に18世紀に発見されたのか、と。
よくよく調べてみると、イスラーム勃興以降の地誌などにベヒストゥーン碑文への言及を見受けることができます。
例えばイブン・ファキーフ『諸都市の書』,290/903年頃における「驚異」の1つであったり、イスタフリー『諸国の諸道の書』, 340/951年頃にて叙述されています。
これらは全て、この碑文はホスロウとシーリーンの絵だという“伝聞”を記録しています。
残念ながらこれらは全てササーン朝の遺構について説明と混同ですが…。
とはいえ、「ホスロウとシーリーン」:ニザーミー(1141-1209)による叙事詩で、ササーン朝のホスロウ2世がモデルなのです。
つまり、イスラーム以前の伝承を元として作られているのです。
で、その中にベヒストゥーンが舞台の1つとして出てくるので、間違いが起きちゃったんですよね。
で、ベヒストゥーン碑文に関する歴史学的な叙述は18世紀にヨーロッパの学者たちが発見するまでなされていなかったために、歴史学的な解釈は19世紀中葉を待つことになります。
いや、でもこれが見つかっていなかったとは同義ではなかったんですよ。
西洋の学問である”歴史学”から見れば確かに科学的に解釈なされていなかったからこその扱いなのですが、一度イスラームの立場に立てばそれは違って見えると思いませんか?
なので私は以下のように結論付けたいと思います。
さて、なんでこんな西洋中心主義的な話が出てきてしまったのか。
それを見るには別の具体例を見ていきましょう。
\デデーンッ/
皆さんご存知ノアの方舟です。
結構「十戒」「エクソダス」みたいな映画のテーマになったり、漫画Dグレとかの元ネタとかになってるんでご存知の方も多いのではないでしょうか。
これオリエント史的にはとても面白いんですよ。
なんと元ネタが存在します。
FateとかでAUOとして出てくる、某金ぴかギルギルさんがいるじゃないですか。
あの酔狂よなあとか言ってる系慢心王の元ネタと言えば伝わる方もいるのではないでしょうか。
彼の原典である『ギルガメシュ叙事詩』にウト・ナピシュテムの伝説というのが含まれています。
画像の粘土板(第11書版)に刻まれているストーリーなのですが、これが洪水伝説に関して叙述しています。
で、これ読んだのが、George Smithというめっちゃすごい学者です。
余りの感激のあまり、彼は服を脱ぎます。
服脱いじゃったんですよね…。
で、それを現大英博物館館長が評して曰く
脱ぐ価値あったんですかね、本当に。
2016年のリオ五輪の時に、試合に勝って服脱いで問題に確かドイツの選手もいますし、欧米的に普遍的な感覚なのでしょうか。
ちょっと私にはわかりません。
なにはともあれ、欧米人が自身のルーツとする『新約聖書』の元である『旧約聖書』は実は他の文明の文脈を引いている!
これは大きな衝撃であったことには違いないでしょう。
なので、欧米はこれをメソポタミア文明を自分たちのルーツに於いてしまいました。
だがしかし。
『旧約聖書』は同じく『コーラン』のルーツにもなっているんですよね。。。
なんていう欧米中心主義。
勿論、西アジアの人々が何もやっていない、という事はありません。
2004年のアテネ五輪の入場式の際、このような風景が確認されました。
こちらの女性にご注目ください。
なんとこれには考古学が絡んでくるのです。
このウルの王墓と呼ばれる遺跡から出土したアクセサリーのレプリカを彼女は纏っているのです。
これは自分たちの歴史である。
そう主張しているのです。
さて、イラクの場所を確認してみましょう。
こちらは2018年4月28日に私自身が撮影したGoogle mapの写真です。
水色の円で囲んであるのがイラクです。
で、更にウル遺跡の近くに拡大していきましょう。
ここがナーシリーヤ州で、この近くにウルのジッグラトが存在すると言われています。
で、↓の地図をご覧ください。
Urという町の名前とSumerという道の名前を確認することが出来ます。
ウルとシュメル。
何も関係性がないのならば、そんな他所の文明に由来する名前を土地に着けるでしょうか?
これもまた、メソポタミアから今に至るまで、歴史に断続性がない、そのように主張している証左と言えるでしょう。
ということで以下のように結論をづけたいと思います。
つまり、イスラームという宗教は歴史の流れを中断してはいない。
むしろそこには連続性があるのだ、と評価することができます。
最後に私の好きな言葉を紹介して終わらせていただきます。
全ての国はその文化が生きる限り存在し続ける。
(パキスタンの国立博物館と国宝に関しては涙なしには語れない歴史がありますので、是非調べてみてください)
色々感慨深いですよね。
(この言葉と共にもう一度この発表の内容を振り返っていただければ幸いです)
以上が2018年4月29日歴つくば 7.「歴史学からイスラームを評価する」の史料になります。
ここまで読んで頂き、誠にありがとうございます。